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被害者遺族の会は、日本が世界に誇れる素晴らしい団体である

被害者遺族の会がある。或いはそれと同様の目的と働きをしようという団体もあると聞いている。果たして外国にも同様の団体があるか否かは分らない。でも、法や社会に理不尽な仕打ちを受けた人たちが自分たちで積極的に能動的に働きかけて社会に一石を投げ、法や社会を変えようと頑張っている。非力な弱者の立場にある人たちが力と心を合わせ、国家と言う大きな存在に頼らずに、不公平で理不尽な今の法や社会の壁に立ち向かっている。何と素晴らしい事か!私は被害者遺族ではないが、今迄にも彼らを心の底から応援してきた。しかし、それだけでは「受け身」に過ぎない。今の人生にまた一区切り付いたら、彼らを支援するために自分も集団に入ろうと思っている。今迄は自分のために生きてきたのだから、残された人生の一部を世のため、人のために捧げたいと思う。子供のころから憧れていたヒーローになるのである。力で戦うのではない、弱者を慰めることも出来ない。しかし、弱者の心を掴み、一つに纏め、積極的に戦うための後押しくらいは出来ると思う。確かに私は微力ではある。しかし、自分がやらないで誰がやる!選挙の清き一票と同じである。
被害者遺族の会は、被害者側の人間に対する社会の経済的援助、医療ケア、安泰な生活の保障を求める一方で、当然の事ながら、死刑制度廃止への反対運動、凶悪な犯罪者は生命をもって償うべきであり、被害者視点の裁きと、死刑選択基準の引き下げと見直し(単純に被害者の数で決めるのではなく、たとえ被害者が一人であっても、それが人間性の全くない凶悪犯行には積極的に死刑を適応すべき)を強く訴えている。これは確かに犯罪者の処罰をめぐる世界的な死刑廃止の流れとは逆行するものである。「加害者を死刑にしたところで被害者が戻る訳ではない」とも言われる。被害者遺族の中には確かにその様な消極的な考えの人たちも極一部ではあるがいる。実際「犯人を死刑にしたって空しいだけだ。」という、遺族の心を親身に理解しようとしていない様な声も聞いたことがある。でも、大部分の被害者遺族はそうではないのである。自分だけの無念を晴らせばそれで良いというものではない。凶悪犯罪者者への処罰は単に被害者と加害者の間の事ではなく。社会全体全ての健気に生きる罪のない人たち全員への問題である。そして死刑は事件の「終わり」ではなく、むしろ、罪なき人たちを守るための活動に繋げる「始まり」と考えるべきだろう。「死刑で被害者は戻らない」という言葉がいかに被害者遺族から、積極的で能動的な前向きに戦う気力を奪い、消極的で受け身的な後ろ向きな諦めを押し付けているか!という事も全ての人たちに理解して貰いたいと思う。
日本の被害者遺族の会に相当する集団が海外にあるか否かは判らないが。日本にこのような集団があるという事はむしろ世界に誇るべき事である。死刑を廃止した先進国だって、被害者遺族や民意を冷酷に無視して一方的にやった事なのだろう。だったら、日本の被害者遺族の会が世界にも影響を与え、海外でもやはり被害者遺族を中心とする人たちの集団が国家を相手に死刑制度復活を要求するデモンストレーションやクーデターを起こしてくれれば!と願う。とは言っても、日本の被害者遺族の会の力は国家の法の壁を相手に戦うにはまだまだ弱小である。しかし、諦めた時が負けた時である。
犯罪者を許すというのも一つの選択であろう。でも、それは被害者がする事であって社会や法がする事ではない。また、安易に許してしまう事が、今後起こりうる凶悪事件の被害者を苦しめる事に繋がるという事も十分に考慮しなければならない。
「事件は解決しても犯罪が解決したわけではない」といった広告機構のCMがある。被害者側が真に納得できない限り、犯罪は決して解決しない。社会から犯罪者が切り捨てられるのはむしろ止むを得ないが、現実には被害者の方が切り捨てられているのではないか。被害者を置き去りにしておいて何が司法だ!そんな犯罪被害者遺族達の叫びが津々浦々のみならず、海外にも伝わって欲しいと思う。死刑を廃止するのは、この世から凶悪犯罪が金輪際一切全てなくなってから後でも決して遅くない。

被害者遺族の会は、日本が世界に誇れる素晴らしい団体である。

# by kosaisiwasizu | 2017-11-25 09:48

反対語は一つとは限らない、見方を変えれば色々ある

「好き」の反対は「嫌い」。国語辞典にも載っている。でも、現実はそうとは限らないのではないか?多くのファンから嫌われている筈のタレントが毎年人気上位にランクされていたという不思議な現実がある。もっとも、そのアンケートは「嫌いなタレント」の方は挙げていないのでそちらの結果は判らないが。でも、毒にも薬にもならない様なタレントはランク入りしない。それも当然だろうな。物事には二面性がある と以前の記事でコメントしたこともある。「好き」の反対は「嫌い」というよりもむしろ「興味がない」の方が正しいのかも知れない。私はプロ野球には興味はないが、プロ野球そのものを嫌うつもりはない。むしろ アンチ巨人の野球ファンが巨人軍の事に詳しい、というのが野球ファンでは常識かも知れないし、嫌いなタレントのプロフィールに詳しい芸能ファンもきっと多いと思う。私は映画が好きだが、作品によって好き嫌いもあるし、好きな映画でも本当に満足できる作品には先ずお目にかかれない。好きだからこそ重箱の隅を突いてケチを付けたりもするのである。
「美味しい」の反対は「不味い」ではなく「食べたくない」とも言われる。どんなご馳走でも、空腹じゃない時や体調の悪い時や心配事や辛い事がある時に食べても確かに美味しくない。と言うか食べる気がしない。一方、空腹でひもじい時はどんな質素な食べ物でもこの上なく美味しく感じられるし、食べたいと思うものである。
「成功」の反対は「失敗」ではなく「放棄」或いは「何もしない」であると言えるだろう。「失敗は成功の元」とも言って、多くの失敗の末に成功は生まれる。成功は英語で「サクセス」とも言うが、「続行」という意味もある。失敗しても続行せずに中断したら成功は生まれない。
これまた以前の記事で私が言ったが「贅沢」の反対は「ケチ」ではなく「無駄使い」である。贅沢とは物の価値を無駄なく活かす事である。或る意味ケチと同じである。本当のケチは物を使わない人ではなく有効に使う人の事だ。どうせ使い切るなら大判振る舞いで豪華な方が良い。価値を活かしきらずに捨ててしまうのが無駄使いだ。それなのに無意味なお金や物の使い方をしている「無駄使い」と「贅沢」を履き違えている人間の何と多い事か?人々が飢えている国家の人々に申し訳ないぞ!
最後に「愛」「優しさ」の反対は「憎しみ」「厳しさ」ではなく「無関心」だと言える(余談ながら、反対の反対 例えば「無関心」の反対が「お節介」にもなる様に、これまた一つとは限らない)。だからと言って「愛の鞭」という言葉を引き合いに出すのは問題があるが。しかしながら例えば、死刑支持派と死刑廃止論者、どちらが本当の愛や優しさを持っているか?最初にはっきり言うが、私は死刑支持論者である。凶悪殺人事件の加害者(特に若い女性や子供を殺すような奴は一人残らず死刑にして殺してやりたいと本気で思っている)への激しい憎しみは、被害者への愛であり思い遣りである。そう言える根拠についてはここでは省く(過去の記事の中で散々に述べている)が、人の命の価値を味噌も糞も一緒にして考える廃止論者と比べてどっちが愛に溢れているか?どっちが真の優しさを持っているのか?私自身は断固たる信念のもとに、今の自分の生活が一区切り付く近いうちに被害者遺族を支援する集会に入って、死刑廃止論者たちと真っ向から戦う事は勿論の事、彼らが今の理不尽で不公平な法や社会の有り方に対して、積極的能動的に戦える世の中にするための後押しをしたい という決心が一層強まった昨今である。
世の中に絶対の人間愛はない。あちら立てればこちらが立たないのなら、私は弱者や被害者に全面的に味方する。愛や優しさを踏み躙る奴らに対する怒りや憎しみが私の愛であり優しさである。今はかくあるしかない。

反対語は一つとは限らない、見方を変えれば色々ある

# by kosaisiwasizu | 2017-11-22 17:55

嫌われるのも人気のうちである。しかし有名人は軽蔑されたら致命傷だ

嫌われるのも人気のうちである。しかし有名人は軽蔑されたら致命傷だ_d0232261_1645512.jpg

今からここに書き込む内容は自分的には決して「叩き」「虐め」などという次元のレベルではなく、あくまでも「忠告」「警鐘」のつもりである。厳しく辛い苦言ばかりになるが覚悟して読んで欲しい。ただ、ネット上の報道から得た情報なのでもしかしたら食い違いや勘違いも含まれるかも知れない。
よく「嫌われるのも人気のうち」とか、「好き の反対は 嫌い ではなく 興味がない」という言葉を聞く。「嫌い」にはもしかしたら「食わず嫌い」も入っているのだろう。たとえ恋人や好きな食べ物であっても「全てが好き」「これさえあれば他に何もいらない」という人や物はこの世では先ずはお目にかかれないし、人は興味があるからこそ嫌いな点も厳しく指摘するのである。有名人の場合でもキャラにアクがある方が知名度に繋がるし、時には嫌われることも人気のうちなのだろう。
でも「嫌い」「気に入らない」を通り越して人間として軽蔑されたら致命的と言うべきだろう。ついでに前以って言っておくが、「偉い」の反対は「卑しい」ではなく「偉そう」だとも言う。地位や肩書などなくても、謙虚な人は決して卑しい存在ではない筈である。むしろ心の卑しい人間が高い地位を得たばかりに問題が起きるという事例は歴史を見ても決して少なくなかった筈である。
某有名女性歌手でタレントが昨年の紅白を落選したことで、確かに「悔しい」という気持ちも判らなくはないが、その後の「恨み節」というべき未練がましい態度(あわよくば復帰を狙っているという、憶測的ではあるがそんな内容の記事まで見た)はもはや「嫌い」を超えて人間的に「軽蔑」の領域である。今まで私はその女性歌手は大嫌いだったし、何年も前からずっと紅白を落選して欲しいと思っていた。亡くなるならその女性歌手よりも後であってほしい女性スターや元アイドルとかの訃報を聞くのも正直辛いものだった。でも「軽蔑」の気持ちは更々無かった。しかし、流石に今回ばかりは「軽蔑」を感じてしまった。人間として、芸能人として、性根の腐った最低の存在 じゃないか !という。この様な芸能人をのさばらせたのは日本の芸能界にとって大きな恥だったと言っても過言ではないと思った。
オワコンベテラン歌手は若手の踏み台になるべきであって、若手の壁になったり、若手を踏み台にしてはならないのである。当人に言わせれば「若手の目標となる存在として私が必要」のつもりかも知れないが、それはとんでもない思い上がりである。若手が目標とすべき芸人やアーティスト達は彼女よりももっと若い世代にとっくに幾らだって育っている。「ワガママな思い上がりもいい加減にしろ!」と言いたい。以前の記事でも述べたが、ワガママも言うだけなら自由だ。しかし、それを実践するとなると大きな責任が付き纏う。結果として失敗したら全責任を被ってどん底に堕ちる覚悟がいる。
また、そんな彼女を擁護する大阪のアホ芸人の発言には呆れる。昨今の番組内でのパワハラでツイッターに怒りのコメントが寄せられた時、「そんなのは必要悪や、芸能界に力関係がなかったらおもろない、芸と言うかお約束事のうちや。」などとぬかしおったし、紅白落選の時も「出してあげたらええのや、マンネリかてゴリ押しで続ければ風物詩となる。」などと、視聴者を愚弄するようなコメントをぬかしていた。マジで「下種なのは顔だけにしてくれ」とそいつに言いたい。でも、この芸人の考え方は、アメリカ大統領選挙の際に本国優先の都合主義でトランプ氏に票を入れた投票者の考えをもっと極端にした様にも思える。
じゃ、もし紅白に復帰したとして、何を歌うのか?2015年に小林幸子さんが特別枠で異例の復帰を遂げたが、正直言って同じように復帰するのは太陽が西から昇るようなものである。小林さんの場合は過去の大掛かりな衣装と言うか舞台装置は今回も使用したが、選曲は従来の演歌ではなく、若者に人気のネットゲームのテーマ音楽という事で、かつてない強烈なインパクトがあり、ネトゲを知らない世代にも受け容れられた。しかも、ネット配信の様にコメントが画面の右から左へ流れるという演出も印象的だった。このインパクトには私も小林さんの復帰を十分に納得できた。
しかし、もし、一年のブランクを置いてその様な形で彼女が復帰したとして、先ずは何を歌うのか?ゲーム音楽なんて無理、たとえ挑戦したとしても新鮮味はないだろう。自分の得意曲だと言っていた「愛の賛歌」を歌ったところでこれまた二番煎じだし。持ち歌はいい加減若い世代には飽きられているし。小林さんの時の様にコメントを流そうものなら、「オワコンは引っ込め」「二度と紅白のステージに来るな」「クソババア!くたばれ」などといった罵詈雑言の嵐になる事はもはや火を見るよりも明らかである。正直言って、何のプラスにもならないだろう。今迄だってさえ、彼女は私にとっては紅白におけるトイレタイム歌手だったのだから。
いい加減、思い上がりは捨てて、若い世代に任せ、ゆだねるという気持ちを持ってほしいと思う。行き過ぎた遠慮や謙譲もワガママのうちというなら、ワンマンショーとかディナーショーとかで、本当に自分のために来てくれるファンだけにじっくりと思う存分歌ってあげて欲しいと思う(果たして 来るお客がいるかな?)。

嫌われるのも人気のうちである しかし有名人は軽蔑されたら致命傷だ

# by kosaisiwasizu | 2017-02-06 16:40

真の理想的な法や政治とは、弱者のためにこそあらねば意味はない

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アメリカ大統領トランプ氏に対して、日本やその他の国でも就任を問題視する見解が多いが、アメリカでも多くの反トランプ派が、クーデターを起こしてヤメロコールを叫んでいる。特に注目すべきは、反トランプ派の人たちに女性が多いことだ。日本では「女が笑う家には福が来る」「日の本は女がいなければ夜は明けぬ」という言葉もあるが、その一方で女性差別は案外根強く残るし、セクハラや、「エロ」「萌え!」の対象にされているのはもっぱら女性だし、凶悪な性犯罪においても女性は理不尽な被害者の立場を強いられているし、その他女性である事による多くの面でのハンディは多い。私は特に女性側を贔屓しようというつもりでもないが、それでも弱者に味方するのは人間として当然であろう。「弱者」という事で女性を引き合いに出したが、別の観点から言えば「黒人」もまた、社会的にハンデを背負ってきた民族と言えるだろう。オバマ前大統領の時点でも勿論の事、古くは「人民の 人民による 人民のための政治」を目指したリンカーン元大統領の、黒人への差別撤廃活動という実績もある。トランプ大統領に果たしてその様な意向があるのか?確かに疑問である。先ずは足元を固めるという、アメリカ第一主義も判らなくはないが、アジア人や黒人に対する、差別とまではいかないにしても、軽視が懸念されるのではないか と思ってしまう。選挙演説の際にも、相手候補への悪口が逆に自分の大幅なイメージダウンに繋がった と思えるのに、何故当選したのか?投票した人たちは「綺麗ごとだけでは合衆国の景気は良くならない」と判断したのだろうか?確かに、攻める側ではなく攻められる側がいくら「戦争反対」を叫んでも効果はない。防衛や存続のためには力としての武力だって必要になるという、それと同じことかも知れない。
話を「女性蔑視」に戻すなら。反トランプクーデターに加わった女性の一人が「トランプ氏の発言や意向が、自分のかつてのセクハラパワハラ上司を思い出させて、トラウマさえ呼び起こした。」と語っていた。強きに服従する事を良しとしない自由の国アメリカをまさに思わせる発言だった。健気に生きる若い女性は一人たりとも失いたくない大切な社会の宝であり、私に言わせれば年老いたⅤIpなんかよりもよっぽど大切である。以前にも述べたが、私が大統領のシークレットサービスだとしても、先ずは自分の命を優先する。しかし、健気で可憐な少女を守るためなら身を盾にもしたい、と。これを聞けば多くの人間が「お前は救いようのないバカか?大統領を守って殉職すれば、家族に多額の見舞金だって入るのに、一円の得にもならない殉死の方を選びたいのか?」と言うだろう。確かにバカである。でも、私はそんなバカである事を心から誇りに思うだろうし、世の中はその様なバカをまさに必要としているのではないか!逆に、強者に媚びる一方で弱者の痛みに平気でいられるようなタイプの大バカこそ世の中からどんどん消えてもらいたいと思う。我が子に「プライドやお人よしもいいけれど、それでどうやって金を得るんだ?暮らしていけるのか。」などと言う、そんな「人の親」には決してなりたくないと思う。年末になると「皆さんにとって良い年になりますように」という声を聴く。国の景気(金持ちばかりが栄えても意味はないと思うが)や明るい話題も良いけれど。弱者への救いなくして本当に良い世界もへったくれもないと思うし。そんな人こそが指導者であるべきなのだ。かつてのウォーターゲート事件の様な失態や、任期途中での脳卒中か心筋梗塞に淡い期待をしている人もいるかも知れない。

真の理想的な法や政治とは、弱者のためにこそあらねば意味はない

# by kosaisiwasizu | 2017-01-23 16:51

希望とは健気に生きる弱者にこそ与えられるべき特権である、独裁者に与えられる物では決してない

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「スターウォーズローグワン」を観た。映画のキャッチフレーズは「希望」。ラストに1シーン登場のレイア姫のたった一言のセリフ「この中にあるのは 希望です。」秩序の名のもとに強大な破壊力と独裁行為を振るう帝国軍を打ち破るために大勢の仲間たちが犠牲を払って得た情報。それこそが独裁から銀河を守るための明日へとつながる唯一の「希望」であり、まさに、エピソード4「新たなる希望」のサブタイトルにもそのまま繋がる。そういった意味で、レイア姫のたった一言のセリフは映画を見た者の心に重く深く響くものである。
ところで「希望」とは何か?改めて考えてみた。「希望は貧者のパンである」「貧しい者は希望に生きる」という格言もある。私は思う。希望とは、健気にこつこつと努力を重ねる弱者の立場にある者にこそ与えられるべき特権だと思う。今よりも強くなりたい より高みに昇りたい 弱い立場にある人たちや理不尽に苦しんでいる人たちを助けたい。そんな人たちの努力や忍耐や勇気ある行動の向こうに待っている物である。他人を払い除けて力や物を独り占めする様な者、そんな奴に媚びて自分も良い思いをしようと考える者、そんな輩を希望が待ち受けるなどという事は決してない。
権力者や独裁者の見る夢は「希望」ではなく「野望」である。希望は常に挫折と隣り合わせであり、野望は常に破滅と隣り合わせである。人は破滅したらそれで終わりである。しかし、挫折した者は何度でも立ち直る。挫折によって自分の人生が終わったとしても、それが世のため人(弱者)のためであるのなら、誰かがその意思を受け継ぐ事で希望は未来に受け継がれる。
寄って集って弱い者いじめをする奴らに希望を持つ資格などない。嫌な気分になったからと言ってその攻撃性を無関係の弱者に向ける奴は、希望を持って生きる資格を愚かにも自分から放棄している。それよりももっと大きな物、この世の理不尽や不公平に反発し、戦ってみろと言いたい。正しい形で自分の価値を世の中に示してみろと言いたい。一人一人の行いは小さくても、集まれば大きな力が生まれる。それこそが希望に繋がるのだと思う。
侵略 略奪 虐殺 独裁 支配 制圧 人間の歴史は愚かしい暴力行為の歴史でもある。しかしその一方で 直訴 一揆 仇討ち 叛乱 革命 改革 といった 明日への希望に繋がる行為も数多い。人間は愚かではあるが賢くもなれる。賢くなるためにはたった一つの事、弱者の視点で物事を見て、弱者の痛みを理解する それだけで充分な筈なのに 何故この世にはそんな簡単な事すら出来ない大馬鹿野郎ばかりなのか?そして、そのためにどれだけ多くの「希望」が踏み躙られてきたか?
但し、誤解しないで欲しい。強者は弱者を守り助ける義務があるが、弱者には守ってもらい助けてもらう権利があるという訳では決してないので、その点を履き違えないで欲しい。弱者と言えどもそれなりの努力をしなければならないし 努力なくして希望は決して待っていてくれないのだ。

希望とは健気に生きる弱者にこそ与えられるべき特権である、独裁者に与えられる物では決してない

# by kosaisiwasizu | 2016-12-17 18:05